砂塵の系譜

I

灼けつくようなシュリーマの陽射しをどれほど恋しく思っていたか、タリヤはほとんど忘れかけていた。雑踏の中、何百人もの人々が汗だくになりながら他人を押しのけ、罵り合い、値段交渉をし、雑談に興じる。その喧噪と目まぐるしさは、よそ者の目には争っているようにしか見えないほどだった。

旅をしている間、故郷ほど賑わい、活気に満ちた場所に巡り合うことはなかった。確かにアイオニアは不思議と魅了される場所だったし、フレヨルドの凍てついた景色には目を見張った。だが、ベル=ジュンの石の波止場に足を踏み入れた瞬間、シュリーマの灼熱の太陽は、そんな記憶など雪のように解かし、消し去ってしまった。

この土地に感じる「絆」の力が、ババジャンが淹れるスパイス入りのお茶のようにタリヤの体中を満たしていく。知らず知らず満面の笑みが広がり、波止場から続く階段を上がる。帝国の支配地であることを示す門「ノクストラ」の黒い石の下をくぐった時でさえ、高揚感が萎えることはなかった。

タリヤはベル=ジュンにあまり長くは留まらなかった。泊地にあるノクサスの戦艦の存在はひどく気に障るし、嫌な記憶を突きつけてくる。必要な物資を買い集め、キャラバンが砂漠の奥地から市場まで運んできた耳新しい噂話を仕入れるだけで十分だった。砂の兵士たちの目撃談、晴天の空から突然走る稲妻の嵐、いくら人々の記憶を遡っても一滴の水さえなかったはずの場所を流れる川……噂話のほとんどは、突拍子もない空想に過ぎなかった。

親切な人々の誘いを受け、タリヤは南に向かうネリマゼスの絹商人たちに同行することにした。武装したキャラバンとともにケネセトを目指す。がたがたと揺れる荷車での移動にひたすら耐え、ようやくサイの北の国境にある悪名高き街の骨の市場スークに着くと、タリヤは一人でキャラバンを飛び出した。キャラバンの長で、鞭のように細く、黒玉のような瞳を持つシャマラという名の女は、これ以上南には行かないほうがいいとタリヤに忠告したが、家族が自分を必要としているのだとタリヤが言うと、それ以上は止めなかった。

ケネセトからさらに南へ、タリヤは人々が再び「生命の母」と呼ぶようになった、曲がりくねる大河に沿って進んだ。その源泉は古代シュリーマ帝国の都にあるといわれている。独りでいる方が移動は楽だった。岩の先端に立ち、足元の地面を波に変えて、滑るように南へと進んでいく。目指すのはサイから徐々に流れ出た砂に半ば埋まっているといわれる街、ベカウラだ。

ベカウラは見捨てられた都市の残骸の上に造られた、ちっぽけな部族のキャンプに過ぎない、とシャマラは言っていた。疲れきった旅人や彷徨う遊牧民が少しの間腰を下ろすだけの場所だと。だが、2キロほど離れた場所からでも、シャマラの思い込みが間違っていたことを見て取れた。ベカウラは復興したのだ。

ここで、死にかけの女を見つけさえしなければ…

II

市場は色彩と騒音に満ち溢れていた。鼻にツンとくる空気が、弓なりに張られたキャンバス地の日除けで覆われた通りを吹き抜け、響き渡る値段交渉の声や、刺激的な香辛料の匂い、炙られた肉の香りを運んでいる。タリヤは群衆をかき分け、行商人の大げさな売り文句や「腹を空かせた子供たち」の哀願を無視して進んで行く。誰かが彼女の袖をつかんで、串刺しにされた砂漠の害獣が並ぶ屋台へと引き寄せようとしたが、タリヤはその手を振り払った。

ベカウラの崩れた壁へと続く広い通りは、何百人もの人々でごった返していた。皺だらけで賢者然とした老人達が戸口に座り込んで水タバコを吹かし、煙が霧のように漂っている。バーバイ、ザガヤ、イェシェージェの部族の紋章、それにタリヤの知らない紋章をいくつも見かけた。シュリーマを発った時には仇敵同士だった部族の男たちが、今では兄弟のように肩を組んで歩いている。

「私がいない間に、随分変わったみたいね」タリヤは独りごちた。

ここへ来たのには目的があった。街の東の外れにある廃墟に再び行かなければならない。必要以上に長居する気はなかったが、傷ついた女に、自分が世話をすると誓ってしまった。タリヤはいつも母から、決して誓いを破らないよう言い聞かされていた。「大いなる織り手」は、誓いを破る者を良く思わないのだ。

タリヤが背負っている粗織りの袋は食べ物でいっぱいだった。塩漬け肉、オーツ麦、パンとチーズ、そして水袋が二つ。タリヤひとりには多すぎるが、彼女の分だけではない。衣装の裏地に縫い込んであった金はほとんど使い尽くしたが、目的地がもう遠くないことはわかっていた。実際に知る術はなくとも、一歩ごとに父と母の温かな腕の中へと近づいているのを感じた。家に戻れば、もう金など要らなくなる。必要なものはなんでもテントの中に揃っているのだ。

その光景を思い描いていたタリヤは、目の前にいた大男の存在に気付かなかった。頑強な巨体にぶつかって跳ね返され、タリヤは地面に仰向けに転がった。

まるで崖面に突っ込んだようなもので、男は身じろぎもしなかった。市場の人々は、川の水が岩を避けて流れるように、男を迂回していた。頭から足の先までボロボロのローブをまとっているが、その巨躯はまるで覆い隠せてはいない。手には布を巻きつけた長い杖を握り、幅広い杖の頭部はボロ布で覆われていた。両脚が奇妙な角度に曲がっているその男には、杖が必要なのだろう。

「ごめんなさい」タリヤは言った。「ちゃんと前を見てなかったの」

男がタリヤを見下ろす。その顔は長い頭巾の影に隠れていて見えない。何も答えずに、男は手を差し伸べた。どの指にも、疫病を患う者のように包帯が巻かれていた。タリヤは一瞬躊躇ったが、その手を取った。

男は造作もなくタリヤを起こした。男がその手を袖の中に引っ込めようとした時、タリヤは埃まみれのローブの布地の下が金色に輝いているのを見た。

「ありがとう」タリヤはお礼を言った。

「しっかり前を見て歩いたほうがいい、小さき者よ」男には強い訛りがあり、声には奇妙な反響があった――心の中にある、どこまでも深い悲しみの井戸から発せられたかのように。「シュリーマは今、危険な場所だ」

III

男は少女が市場を駆け抜けていくのを見送ると、再びベカウラのひび割れた壁に向き直った。巨大なブロックは彼の頭の高さまでしかなく、それより上の部分は同じ色に塗られた日干し煉瓦を積み上げて造られていた。ベカウラの民には壮大に見えるのかもしれないが、男の目にはみすぼらしい模造品としか見えなかった。

男は門を通り抜け、粗雑な石造りの天井を見上げた。真鍮製の紡ぎ車のような奇妙な装置に囲まれて立ち、緑色の硝子瓶に砂混じりの水を注いでいた水売りが、通り過ぎる男を見上げた。

「水はいらんかね?生命の母から汲んだばかりの…」だがその売り口上は、そびえ立つ男の巨躯の前にもごもごと立ち消えた。

進み続けるべきなのはわかっていた。男は、占星術師の塔の壁に血で殴り書きされた言葉に導かれて、この地を訪れていた。そしてあの魔導師も、この地に引き寄せられているはずだった。男はこのベカウラに、超越者の血を継ぐ者、かつて大陸の端から端まで版図を拡げていた偉大なる帝国が、瓦礫と化す前の時代まで血筋を遡れる者の存在を感じていた。古代シュリーマの血を継ぐ者はわずかしかおらず、強い力を秘めている。だからこそ仇敵よりも先にその者を見つけることが何より重要だった。シュリーマの血こそ、アジールを破滅から蘇らせたものであり、それが悪の手に落ちれば、復興したシュリーマに破滅をもたらすことになりかねない。

そう、進み続けるべきだった――だが、男は立ち止まって言った。

「お前は過去の亡霊に囲まれて商いをしている」

「亡霊?」水売りの声が恐怖に震える。

「このアーチは」杖でアーチの天井を示しつつ、男は続ける。人々がその上の塁壁を歩く度、ひびから埃がもうもうと舞い落ちる。「失われたイカシアから逃れた職人たちが造ったものだ。精確に切り出された石材が組み合わせてあり、一滴の漆喰も必要としなかった」

「し…知りやせんでした」

「お前たち定命の者は知っておくべき過去を忘れ、伝説の手に委ねてしまう」砂漠の奥深くで何百年もの時を失った苦しみが、煮えたぎる怒りへと変わりつつあった。「そのような記憶の欠落を阻止するために、我は大図書館を建てたというのに」

「勘弁して下さいよ、旦那ぁ」水売りは門の壁に背中を押しつけながら言った。「そりゃ、大昔の神話みたいなもんでしょう」

「お前には大昔の話かもしれぬ。だが我が初めてここを訪れた時、壁は築かれたばかり、60メートルもの長さの磨き上げられた大理石でできており、全ての石は真新しく、石目の縞は金に輝いていた。我と弟は勝利を掲げ、金色の鎧をまとい輝く槍を持った一万の兵を率いて入城したのだ。この門を通って行進する我らを、市民は歓声で出迎えていた」

男は話を続ける前に、重いため息をついた。「その一年後、全ては消え去った。それが全ての終わりだった。あるいは、始まりだったのかも知れぬ。長いこと世界に背を向けていた我には、もはやわからぬことだ」

水売りは青ざめ、頭巾の下を見通そうと目を凝らす。そして、目を見開いた。

「あんたはあの、さまよえる砂漠の子!」水売りは言った「あんたが…ナサス」

「如何にも」男は向き直り、街へと歩み出した。「だが、我よりもはるかに迷える者が他にいる」

IV

ナサスは群衆から向けられる眼差しを努めて無視しつつ、街の中心にある神殿に向かう人の流れについていった。その巨体だけでも目立つ上、今頃はあの水売りが彼の正体について広め回っていることだろう。シュリーマは常に秘密多き場所であり、秘密はいつまでも埋もれたままでいることはない。街の中心に着くまでに、彼の名をまだ耳にしていない市民がいる方が、むしろ驚きだった。やはり、立ち止まったのは愚かだった。だが歴史に敬意を払わない水売りの態度は、ナサスの中にある学者の部分をひどく苛立たせたのだ。

壁と門同様、ベカウラの内側もまた、かつての栄光が色褪せた影に過ぎなかった。アジールの母はここで生まれ、また若き皇帝は、民に豪奢な贈り物をしたものだ。階段式の庭園には帝国全土から集められた花々が植えられ、瑞々しい色彩と極上の芳香を放つ花冠を形作っていた。尖塔はどれも銀と翡翠で煌めき、大いなる神殿から流れ出でる冷たい水は、その恵みは決して尽きないという妄信の基に、大水道を流れ巡っていた。

過ぎ去った数千年の時は、石の都市の骨組みまでも暴くほど摩耗させ、かつての荘厳な建造物の数々を廃墟に変えた。廃墟はここ数百年の間に、過去を崇めることで未来が救われると信じ、古い様式に固執する者たちによって再建された。次第に数を増す群衆と共に進んだナサスの目の前に現れたのは、忘れられた思い出の粗雑な模造品に過ぎなかった。

一流の工匠たちが設計した建物は、かつての栄光の猿真似に取って代わられていた。正方形の御影石で飾られていた壁は、材木といびつなブロックで建て直されていた。街の外形らしきものは残されていたが、ナサスは悪夢の中でもがいているような気分になった。そこでは見慣れていたはずの場所が歪んで奇妙な形に変わり、あらゆるものが本来の形から不安定に捻じくれている。

周囲の人々が声を押し殺して彼の名を囁き合っているのが聞こえたが、ナサスはそれを無視して進んだ。やがて角を曲がると、ついに都市の中心部の広場に出た。再建されたベカウラの中心に市民が建てたものを目にしたナサスは、鉤爪の付いた手を握りしめた。

そこには、切り出された砂岩と裸岩で建てられた、太陽の神殿があった。人間の手により、人間のサイズで建造されたその神殿は、シュリーマ帝国の心臓部に鎮座していた巨大建造物を、子供が真似て作ったかのようだった。大神殿はヴァロランの羨望の的であり、遠い国の王に仕える建築家たちが何千里も旅して見に来るものだった。それなのに無礼にも、その栄光の記憶を呼び起こそうと建てられたのがこれだというのか?

壁は黒い玄武岩で覆われて煌めいていたが、土台の石が粗く、接合部のあちこちが歪んでいる。神殿の頂には「太陽の円盤」が輝いていたが、今いる場所からでも、それが金無垢ではなく、青銅と銅を混ぜて造られた代物なのは明らかだった。ナサスが超越の儀を受けた時に頭上で輝いていた本物の円盤とは違い、宙に浮いてもいない。円盤の左右に立てられた不揃いな柱からロープで吊り下げられている。

ナサスの内なる一部分が、市民への怒りを叫び出した。彼が、そして幾多の先人たちが戦い、血を流して打ち立てた帝国の記憶を、こんな醜悪なまがい物で汚した者たちへの憎しみが沸き上がった。彼らを激しく揺さぶって、かつての栄光の礎の上に彼らが建てたものが何を奪い去ったのか教えてやりたかった。だが、ナサスが知っていることを知らず、見てきたものを見ていない彼らに、それを理解させることは不可能だろう。

円盤の前では、羽根のローブをまとった法王が両手を挙げ、請願を行っていたが、その声は街の雑音にかき消されて聞こえない。

我はこんなものを見るためにここに来たのか?

V

ナサスは神殿を目指し、確固たる歩調で広場を横切った。四方の角のどれにも、不揃いな石段がある。青銅製の金属片で覆われた鎧と、猛獣を象り、羽根飾りをあしらった兜を身に着けた二人の兵士が階段の前で警備しており、ナサスを目にすると向き直った。彼らの兜が象ろうとしているものを見て、ナサスは愕然とした。どちらも鼻が長く突き出している。片方は鰐の顎を不格好に模造し、もう片方の面頬は、歯をむき出したジャッカルの頭を模していた。

ナサスが近づくと彼らは槍を構えたが、ナサスがローブを脱ぎ捨てて真っすぐに立つと、明らかに動揺を見せた。あまりにも長い間、その巨躯を隠そうと身をかがめ、恥じ入りながら定命の者の世界を旅していた。あまりにも長い間、己の正体を隠し、冷たい孤独に身を置いて懺悔し続けてきた。だが隠すのも、隠れるのもここまでだ。ナサスにはもう、己の真の姿を隠そうという気はなかった。

衛兵の前にそびえ立つナサスはまさに力と魔法の化身、かつて定命の者と神々が共に地上にあったという神話の時代から来た超越者そのものだった。太陽の円盤の魔力を受け、病で朽ち果てる寸前だった彼の体は、滅びることのない黒曜石の肉体と、ジャッカルの頭を持つ半神へと生まれ変わった。シュリーマの印が浮き彫りされた神符を吊り下げ、時を経て変色した黄金の帯金鎧が、その胸と肩を覆っている。杖を包む布を引きちぎると、長い柄を持つ戦斧が現れた。その刃は物々しく光り、中心にはめ込まれた海のように青い宝石は太陽の光を吸い込んでいる。

「道を空けろ」ナサスは命じた。

衛兵たちはたじろいだものの、引き下がらなかった。ナサスはため息をつき、斧を一振りした。先端が一人目の衛兵をとらえ、30メートルもふっ飛ばす。返す刃で二人目を大地に叩き伏せる。苦悶にうめく衛兵を後に、ナサスは鉤爪のある足で階段を登り始めた。

日光を反射して輝く延べ金の円盤が吊られた頂上を目指す。登るにつれ、ベカウラの崩れゆく街壁が目に入ってきた。途切れることのない不毛の砂丘の海が、三方の地平線の彼方まで続いている。都市の東側は地面が隆起し、固い地面のゴツゴツした丘が並んでいる。そこには砂漠に生える屈強な椰子と、何百メートルもの砂の下にある水源まで根を伸ばすバナバーの木立だけが生えていた。

かつて生命の母が潤いを与え、命と活力にあふれていた肥沃な大地を思い返しながら、ナサスは悲しい目で虚ろな砂漠となったシュリーマを眺めた。アジールは再びシュリーマに生命を蘇らせるかもしれないし、そうしないかもしれない。それ故に、血筋を受け継ぐものを見つけることこそ、ナサスの重大な使命なのだ。

他の衛兵たちが何か叫びながら神殿の頂上に移動している。その響きには古代シュリーマ語の影響がかすかに伺えたが、今では失われたその言語の優美さも細やかさも持ち合わせてはいなかった。

ナサスの頭に、超越の儀を受けるため大神殿を登っていた時の苦痛と恐怖が蘇る。消耗性疾患で衰弱していた彼は自力で階段を登ることができず、弟に抱えられていた。頂上に着いた時、太陽はおおよそ天頂に差し掛かるところで、彼の生命は壊れた砂時計から零れ落ちる砂のように失われていった。太陽の光は独りで浴びる、お前はここから離れろ――ナサスはレネクトンにそう懇願したが、弟はただ首を振り、共に太陽の円盤のエネルギーを浴びて超越者となる前に、定命の者としての最後の言葉を囁いた。

「最後まで共にいる」

その言葉は今でも、どんな刃よりも鋭く深く、ナサスに刺さっていた。定命の者であった頃、レネクトンは予測不可能な男だった。暴力に訴え残酷な面を見せる一方で、気高く勇敢でもあった。超越者となってますます強大な力を手にしたレネクトンは、反逆した魔導師に飛びついて諸共に皇帝の墓に飛び込み、シュリーマを救うために自らを犠牲にした。

シュリーマを救う…?

あの日二人は、本当にシュリーマを救ったのだろうか?アジールは死んだ――少年時代からの友に裏切られて。街は滅んだ――超越の儀が失敗し、制御を失った魔力が暴走して、砂漠の砂に埋もれた。墓の扉を封印し、レネクトンとゼラスを閉じ込めたあの瞬間を、ナサスは毎日のように鮮明に思い出した。他に術がなかったとはわかっていても、恐ろしい罪の意識に苛まれることは避けられなかった。

そして今、ゼラスとレネクトンは自由の身となった。アジールは何らかの手段で死を克服して超越者となり、彼の意志によってシュリーマは復活した。古代都市は砂漠の墓から浮上し、何千年もの眠りから覚めて目をこすっている。だが砂漠の噂話が真実であるなら、ナサスが知る、愛する弟レネクトンはもはや存在しない。今の彼は、復讐の名のもとに無慈悲な虐殺を繰り返すだけの、狂った殺戮者となり果てているのだ。

「そして、それは我のせいだ」ナサスは独りごちた。

頂上に辿り着いたナサスは、弟のことを頭から振り払おうとした。砂漠の熱砂を超えて、ナサスの名を吼え続ける化け物のことを。

いずれ対面しなければならない、化け物のことを。

VI

ナサスは神殿の最上部に辿り着いた。腕と腰帯から垂れ下がる神符がひらひらとはためく。斧の柄を粗い石床に立て、周囲を見回した。

太陽の円盤は仕上げが粗く、磨きが足りていないため、日光が乱反射していた。円盤を吊るすロープが惨めたらしく目に付く。ベカウラの民が建てたもののぞんざいさは、目を覆わんばかりだった。天井には装飾が一切ない。天球や四風の図を刻まれた高座もなければ、神聖なる壁面にあるべき超越者たる英雄たちの浮彫もなかった。

ナサスと法王の間に、埃まみれのマントと青銅片を重ねた鎧をまとった十人の兵士が立ちはだかった。法王は長身の痩せた男で、幅広の翼のような袖の付いた、虹色の羽毛の長いローブをまとい、黒いくちばしに似せた頭巾を被っていた。頭巾の下の顔は高貴で厳めしく、無慈悲だった。

アジールのように。

「お前がナサスか」法王は言った。その声は深く堂々としており、威厳もあったが、ナサスには押し殺した恐怖が聞き取れた。神々の末裔だと主張することと、実際に神と対面することには大きな違いがある。

「そのような問いを受けるとはな…我は如何に長いこと、ここを離れていたのか。如何にも我はナサスだが、それより、貴様こそ何者なのだ?」

法王は肩をそびやかし、繁殖期の雄鳥のようにぐいと胸を張った。「我はアズラヒア・テラムー、鷹の皇帝の子孫、ベカウラ第一の声、照らされし者、光の中を歩む者にして聖なる炎の守護者。夜明けをもたらす者にして――」

「鷹の皇帝の子孫だと?」ナサスは割って入った。「貴様は皇帝アジールの血筋にあると主張するのだな?」

主張する必要はない。事実そうなのだ」法王が言い放つ。少々自信を取り戻したようだ。「何が望みなのだ。言うがいい」

ナサスはうなずくと斧をぐるりと回し、両手で地面と水平に構えた。

「貴様の血だ」

VII

ナサスが長柄の斧の石突きを石造物に叩きつけると、屋根から砂煙が立ち上った。それはきらめくヴェールとなってそこに留まり、ゆっくりと法王と兵士たちの周りを回り始める。

「何をしている?」法王が問い質す。

「言っただろう、貴様の血を見たいのだ」

渦巻く砂煙は瞬く間に、轟々たる砂嵐となった。兵士たちは打ち付ける砂嵐から両腕で顔をかばい、法王は吹き付けた砂埃で目と口を塞がれ、うずくまった。砂嵐は、ほんの数分でエカ=スルの群れを白骨に変えるという、砂漠奥地の風の激しさそのままにうなりをあげる。鎧は何の役にも立たず、継ぎ目や隙間から砂が入り込んで容赦なく肌を削った。ナサスが巻き起こした風に太陽の円盤は激しく揺れ動き、それを吊るすロープは石造物に取り付けられた鉄の輪をきしませ、ピンと張りつめる。

ナサスは砂の怒りに身を任せた。黒曜石の体の中に砂漠の憤怒が顕現し、その四肢に力が迸り、胴体が膨れ上がる。その姿はぼやけて大きくなり、最初の超越者がそうであったといわれるように、そびえ立つ巨体と化した。

ナサスは警告することなく攻撃を開始し、斧の柄や平を使って衛兵たちを打ち、左右に蹴散らして進んだ。彼らもまたシュリーマの子である以上、殺すつもりはなかったが、不幸にも邪魔な場所にいた。

のたうち苦悶する彼らの体をまたぎ、ナサスは法王に迫った。法王は地面に丸くなり、血まみれの手で顔を守っていた。ナサスは手を伸ばしてその襟首をつかむと、犬が子犬をくわえて運ぶかのように容易く持ち上げた。ナサスの顔の高さまで持ち上げられた法王の足は、地面から1メートルも浮き、空しくもがいていた。

砂で削られた法王の肌は赤く剥け、頬には血の涙が流れていた。ナサスは太陽の円盤に近づいた。それは本物ではなく、そもそも純金ですらなかったが、太陽の光を反射している以上、多少の役には立つはずだ。

「貴様はアジールに連なるものだと言ったな?それが真実か確かめるとしよう」

ナサスは太陽の円盤に法王の顔を押し付けた。灼熱の金属板に赤剥けの肌を焼かれ、法王は絶叫した。ナサスは苦悶する男を投げ捨てると、ジュウジュウ音を立てて太陽の円盤を滴り落ちる血液の赤い筋を見つめた。血は既に干からびて茶色い固まりと化し、その臭いがナサスの鼻腔を満たした。

「貴様の血は超越者の血筋ではない」ナサスは悲しげに言った。「我が探していたのは貴様ではなかった」

彼は目を細めた。はるか遠くにある何かが放つ青い輝きが、円盤の表面に映り込んでいた。

ナサスは向き直り、地平線を見た。そこでは行進する人々が蹴り上げる砂で、もうもうと砂煙があがっていた。煙の中に、槍の穂先と鎧が陽光を反射して輝いている。打ち鳴らされる戦の太鼓と、甲高い戦の角笛の音色が聞こえる。砂埃の雲の向こうから、いななく巨獣たちが姿を現した。戦獣たちは結び目のあるロープのくびきを着けられ、トゲのある突き棒を携えた男たちの集団に誘導されている。硬化させた皮の装甲をまとい、太く捻じれた角と牙を備えた野獣の群れは生ける破城槌となり、既に崩れかけているベカウラの壁を容易に打ち倒す勢いだ。

戦獣の群れの後には、それぞれのトーテム象を掲げた様々な部族の戦団が続き、街に向かっていた。少なくとも五百人はいる。軽装散兵、雄叫びをあげる騎馬射手、金属片で補強された盾と重斧で武装した兵士たち。本来なら部族同士は、互いを見るなり喉をかっ切ろうとするほど敵対し合っているはずだ。ナサスは彼らを支配する力の気配を感じた。

古代の魔法が働き、金属の味が口内に満ちた。ナサスのあらゆる感覚が研ぎ澄まされる。眼下の街から何百人もの話し声が聞こえ、青銅製の円盤にあるあらゆる粗が見て取れ、鉤爪の付いた足の下に、砂の一粒一粒を感じた。そして、止血されたばかりの鮮明な血の臭いが、彼の鼻をついた。それは古き良き日々のかすかな痕跡と、永久に失われたはずの遠い時代の反響を携えていた。その臭いは街の東端、廃墟と丘の境目のどこかからナサスに呼びかけていた。

その覚醒の魔法の主は軍団の上空に浮いていた。冷たい鉄の鎖で古代の棺桶の欠片につなぎ留められた、爆発的なエネルギーを持つ闇の力。シュリーマへの反逆者にして古代帝国の破滅を画策した張本人。

「ゼラス」ナサスは呟いた。

VIII

ベカウラの東端にある廃墟は崩れかけ、屋根はほとんどなく、くるぶしの辺りまで砂に埋もれていたが、四方の壁と張り出した木々が、一番暑い時間帯に日陰をもたらしてくれている。タリヤは荷物を隅に立てかけ、いつも通りいつでも出発できるようにしていた。側面には水袋と山羊乳の袋が吊られ、荷の中には二週間分に足りる量の干し肉、衣服、そしてヴァロラン中で集めた岩と小石を収めた小袋が入っていた。

タリヤは日陰に横たわる傷ついた女の傍らに跪き、脇腹の包帯を持ち上げてみた。縫い合わせた深い傷の周囲にこびりついた血を見て、たじろいでしまう。刀傷のように見えるが、定かではない。タリヤは女の鎧を脱がせ、できるだけ洗い清めた。女の体には、危うく致命的となるところだった脇腹の傷以外にも青ざめた傷跡が無数にあった。戦い続けた人生の痕跡は、一つを除いて全て体の前面にあった。この女が誰であれ、彼女と正面から戦わなかった敵はただ一人ということだ。タリヤが包帯を交換すると、女が苦痛に呻く。女が砂漠でどれだけ苦しんでいたのかは、大いなる織り手のみぞ知るだが、眠る彼女の体は回復しようと戦っていた。

「あなたは戦士なのね」タリヤは言った。「そうだってわかる。だから戦って、生き抜いて」

女に聞こえているかタリヤにはわからなかったが、女の魂が体に戻るのに、自分の言葉が助けになるかもしれない。何にせよ、熱にうかされて皇帝と死について何やらうわ言を言う以外には何の返事がなかろうとも、誰かに話しかけるのはいい気分だった。

アイオニアでヤスオと別れて以来、タリヤは独りでいることに努め、一つの場所に必要以上に留まることなく、常に移動し続けてきた。ベカウラには予定より長く留まってしまっている。ここには新鮮な水と食料を買うために寄るだけのはずだったが、女の意識が戻るまで、発つわけには行かなかった。自分の家族を探したいという気持ちは抑え難いが、大いなる織り手の教えでは、全ての者は生命の縦糸と横糸として結ばれている。この糸が擦り切れるのを放置すれば、いずれは全ての者が影響を受ける。それゆえタリヤは傷ついた女への誓いを守るために留まっていた。それでも、家族を探さずに過ぎる一瞬ごとに、タリヤの魂は苛立った。

タリヤは女の熱い額から黒髪を払いのけ、その顔を覗き込み、なぜ女がサイ国境の砂丘に半ば埋まっていたのか、その経緯を想像しようとした。美しい女だが、気を失っている今でさえ消えることのない険があった。肌はシュリーマ生まれらしく日に焼け、時々かすかに目を開く度、鮮烈な青い瞳がのぞいた。

タリヤはため息をついた。「あなたが目を覚ますまで、私にできることはあまりないみたいね」

タリヤの耳に、西の方角から衝突音が聞こえた。まぎれもなく岩が岩を削る音だとわかり、窓へと移動する。最初は地震かと思ったが、むしろ雪崩に近い。タリヤは何度も岩が崩れるのを見たことがあった。ベカウラの建物の様子からすれば、建物が倒壊した音だったとしてもおかしくない。誰も怪我をしていなければいいけれど。

「一体何が…?ここはどこ?」

女の声にタリヤは振り返った。女は身を起こそうとして、周囲を見回しながら手で何かを探している。

「ここはベカウラよ」タリヤは答えた。「街の外で、血を流して死にかけてるあなたを見つけたの」

「私のブレードはどこ?」女が問い質した。

タリヤは女の背後を指し示した。鳥のモチーフが交互に織り込まれた毛布の下に、茹革の吊り帯に収まった奇妙な武器が隠れている。

「そこにあるわ」タリヤが言った。「刃がとても鋭いから、うっかり足を引っかけて怪我をしそうな場所には置いておきたくなかったの」

「あなた、誰?」疑いの声で女は聞いた。

「私はタリヤ」

「どこかで会ったことがある?あなたの部族は私の死を望んでるの?」

タリヤは眉をひそめた。「いいえ、会ったことはないはずよ。私たちは遊牧民。織り手であり、旅人よ。決して誰の死も望んでいないわ」

「珍しい部類の人ね」女がゆっくりと息を吐く。脇腹の傷がどれほど痛むのか、タリヤには想像することしかできない。女は身を起こし、傷の縫い目がひきつれるのに顔をしかめた。

「どうしてあなたの死を望む人がいるの?」タリヤは尋ねた。

「人を大勢殺したからよ」苦労して身を起こしながら、シヴィアは答えた。「金のために請け負って殺したこともあるし、邪魔をしたから殺したこともある。でも最近は、帰る気はないって言うと、相手がものすごく怒って、私を殺そうとする」

「帰るって、どこに?」

女は射貫くようにタリヤに青い瞳を向ける。その眼差しは深い苦痛と混乱を湛えていた。

「あの街よ。砂の下から現れた、あの街」

「じゃあ、本当の話だったの?」タリヤが尋ねた。「古代シュリーマは本当に復活したのね?あなたは見たの?」

「この目で見たわ」女は言った。「大勢の人々があそこに向かった。東と南の部族が多かったけど、すぐに他の部族も集まるでしょうね」

「皆向かっているの?」

「日に日に増えているわ」

「じゃあ、なぜあなたは帰りたくないの?」

「質問攻めね。私、もうくたくたなんだけど」

タリヤは肩をすくめた。「質問は、理解への第一歩よ」

女は微笑んでうなずいた。「確かにね、でも質問する相手は慎重に選んだほうがいい。質問に、刃で返答する者もいるわ」

「あなたもそうなの?」

「そういう時もあるけど、あなたは命の恩人だから、やめておく」

「じゃあ、もう一つだけ」

「何?」

「あなたの名前は?」

「シヴィアよ」苦痛を噛み殺しながら、女は答えた。

タリヤはその名前を知っていた。その名を知らぬ者などシュリーマにはほとんどいないし、十字型の刃を備えた独特な武器から、おおよそ見当はついていた。タリヤが返事をする前に、石の崩れる轟音とは別の音が聞こえた。故郷ではめったに耳にすることはなかったが、アイオニアの沿岸部やノクサスの街中、フレヨルドの不毛の凍土ではさんざん聞いた音だった。

タリヤは荷物に目をやり、ベカウラを抜け出すまでにかかる時間を計算した。その音を聞いたシヴィアも、立ち上がろうと脚を伸ばした。耐え難い痛みに、シヴィアはうめいた。額には脂汗が浮いている。

「あなた、動けるような状態じゃないわ」タリヤは言った。

「今の、聞いたでしょう?」シヴィアは言った。

「もちろん」タリヤは答えた。「人々の悲鳴みたいに聞こえた」

シヴィアはうなずいた。「みたい、じゃなくて、悲鳴そのものよ」

IX

空から炎が降り注いでいた。

青白い炎の彗星が、攻城兵器が撃ち出す岩のような放物線を描いて、ゼラスの伸ばした腕から飛んでいく。初弾は市場の地面に落ち、隕石のように破裂した。その衝撃に、灼熱の炎が飛散する。火のついた死体が、黒焦げの焚き付けのように宙に吹き飛ばされた。燃える風が、何千年もの狂気に満ち、他者の苦痛を悦ぶゼラスの悪意に満ちた笑いを運んでくる。

なぜ、あの邪悪な本性を見抜けなかったのだろう?

街から聞こえてくる悲鳴に、ナサスが民に感じていた怒りは、オアシスを覆う朝霧のようにかき消された。痛みで狂暴化した戦獣は、棹立ちして大地を揺るがす力で前足を城壁に叩きつけ、無残にも打ち倒す。軽装の兵士たちが瓦礫を乗り越えてなだれ込んでくる。それぞれが雄叫びをあげて、虐殺を始めようとしていた。

ナサスは斧を振り回しながら、神殿の階段を四段ずつ駆け下りて地面に辿り着いた。都市の西端から何百人もが、恐怖に駆られて広場に逃げ込んで来ていた。その後から、血に飢えた叫びと剣戟の音が追ってくる。パニックに陥った市民は広場に面した建物に逃げ込み、扉に閂をかけ、窓を塞いでやり過ごそうとしていた。陥落した都市の血塗られた通りを幾度となく歩いてきたナサスは、戦いの後で兵士たちがどれほど残虐になれるのか熟知していた。ゼラスはベカウラの男を全て、そして女も子供も、一人残らず剣にかけさせようとするだろう。

さらなる火の玉が天からの稲妻のように撃ち込まれると、悲鳴が響き、肉の焼ける臭いが辺りに充満した。魔法の猛襲の凄まじい威力に石材は崩れ、溶けた岩となってなだれ落ちた。市場は燃え、黒い煙の柱がいくつも空へ立ち上った。

ナサスは恐れおののく群衆をかき分け、力を宿す血の匂いを追って、着実に東へと進んでいた。あの法王は、何千年を経て薄まった弱き血しか持たない偽者だったが、今嗅いでいるこれは…強き血だ。ナサスの耳には、定命の者の胸で力強く打つ、雷鳴のごとき鼓動が聞こえていた。この者こそ、皇帝と戦女王、大いなる野望と力を備えた血筋に連なる者。すなわち、英雄の血族なのだ。

人々が彼の名を叫び、助けを乞うている。だが崇高な使命を果たすべく、ナサスは悲鳴を無視して進んだ。死をも超越してシュリーマに仕え、その民のために戦い、敵から守るために、太陽は彼を生まれ変わらせた。その目的を果たすのが今の彼の使命だ、しかし破滅に飲まれつつあるベカウラの住民を見捨てようとするナサスに、かの罪悪感が鎌首をもたげ、牙を剥いた。

あと何人、見殺しにするつもりだ?

内なる声に耳を塞ぎ、荒れ果てた砂漠の砂がうず高く積みあがった通りを縫うように進んで行った。ここらの建物のほとんどは砂漠に飲まれ、崩れかけた土台と、四角い柱の根元の断面くらいしか残っていない。ナサスを見た砂漠の屍肉掃除屋たちが散り散りに逃げていく中、彼は一歩一歩、雷鳴のような鼓動に近付いていった。次第に街の色は寂れ、周囲の廃屋は砂の侵略を受け一層深く埋まっている。

ついに彼は、かつて公衆浴場として使われていたらしい建造物へと辿り着いた。壁は周囲の建物よりも分厚く頑丈そうであるが、既に崩れかけている。中に入るなり身をかがめ、二人分の汗と血の臭いを嗅ぎつけた。一つは若く、もう一つは、同じ太陽の下を共に歩いた旧友との再会を思わせるほどに、古く懐かしいものだった。

戸口から、東の海の向こうの国特有のふわりとたなびく外套をまとった、若い少女が現れた――市場で言葉を交わした、あの少女だ。恐れをなしている気配は感じられるが、自然の魔力を紡ぐかのように両手で弧や円を描く様からは、不屈の意志が垣間見える。地面が揺れ、彼女の足元の小石が踊り始めると、こびりついた砂が振り落とされた。彼女の背後には、剥がれ落ちていく壁を支えに必死に立ち上がろうとしている女がいる。チュニックが血で真っ赤に染まっている。ひどい傷だが、致命傷ではない。

「我はナサス、古の超越者」彼は名乗ったが、少女の目を見るに、既に彼が誰だかわかっていたようだった。驚きのあまり口を大きく開けたが、彼女は動かなかった。

「道を空けよ、小娘」ナサスは立ちはだかる少女に告げた。

「いいえ。あの人には指一本触れさせない。そう誓っているの」

ナサスは斧を回し、背中に吊るすと前進した。少女が廃墟の中へと後ずさると、足元の地面に丸い波紋が広がった。地面から岩が持ち上がるのと同時に、壁から漆喰の薄片が剥がれ落ちる。石造物に無数の亀裂が入り、かろうじて残った屋根へと走っていく。ナサスは超越者となる前に、似たような能力の持ち主と戦ったことがあったが、危うく殺されるところまで追い詰められた。傷を追った女は驚きの目で少女を見つめている。連れの能力について何も知らなかったのは間違いなさそうだ。

「お前にはシュリーマの岩を砕く能力がある」ナサスは言った。

タリヤが眉を上げた。「そうよ。だから、私があなたを砕く前に立ち去った方がいいわ」

彼女の虚勢に、ナサスはニヤリと笑った。「英雄の心も持っているな、だが小娘よ、我が探していたのはお前ではない。お前には強力な魔力がある。我なら、それをゼラスに奪われる前にこの街を去る」

タリヤは青ざめた。「私はどこにも行かないわ。シヴィアを守ると誓ったから。それに、大いなる織り手は誓いを破る者を嫌うの」

「お前が彼女の守護者であるなら、我は彼女を傷つけに来たのではない」

「なら、何のために来たの?」

「彼女を救いに来た」

包帯の女は足を引きずりながら、少女と並んで立った。激しい痛みに耐えるシヴィアの強い意志にナサスは感心した。だが、古代シュリーマの直系の血を継ぐものであれば、当然のことだろう。

「ゼラスって何者なの?」シヴィアが尋ねる。

「闇に堕ちた魔導師だ。奴はお前の存在に既に気付いている」

シヴィアはうなずくとタリヤに向き直り、日々の戦いでタコのできた手を少女の肩に置いて言った。

「あなたは私の命の恩人よ、でも借りを作るのは好きじゃないの。あなたはもう誓いを果たした。私はもう大丈夫だから」

タリヤははっきりと安堵の表情を浮かべたが、まだ躊躇っていた。

「でも、まだ歩くのもままならないじゃない」タリヤは言った。「せめて、街を出るまでは付き添わせて」

「いいわ」シヴィアはタリヤに感謝すると、ナサスに向き直った。手を翻し、中央にエメラルドがはまった金色のクロスブレードを露にする。定命の者なら持ち運ぶのも一苦労であろうその武器を、シヴィアはしっかりと構えた。

「ここのところ、私を助けようって連中がずいぶん多くてね」シヴィアは言った。「皆いつも見返りを求めたわ。聞かせて、あんたの本当の望みは何?」

「お前に生きていてもらうことだ」ナサスは答えた。

「それには、あんたの助けは必要ない」

「脇腹の傷からすれば、そうは見えぬ。お前は…」

「これ?」ナサスの言葉を遮ってシヴィアは言った。「ちょっとした意見の相違ってやつがあったのよ、『ノー』を受け入れない阿呆どもとね。これよりひどい傷を負ったこともあるし、その時も生き延びたわ。守ってもらう必要はない。最近は私が何をしようと、運命が味方してくれるみたいだしね」

ナサスは首を振った。小さき定命の者には、運命の何たるかが理解できないのだ。

「未来は石に刻まれているものではない」彼は言った。「枝分かれして流れる川だ。その流れは常に変化する。星々に運命を約束された者でさえ、注意を怠れば、その命の水が不毛の地へと流れることとなる」

ナサスはシヴィアの武器を示して訊いた。「かつてその刃が誰のものだったか、知っているか?」

「そんなの関係ある?」シヴィアは答えた。「今は私のものよ」

「その武器の銘はチャリサー、かつては超越者軍団の長たる戦女王セタカのものだった。かつて超越者は『軍団』を名乗れるほど存在していたのだ。我は三世紀に渡り、セタカと肩を並べて戦う栄誉を与えられていた。セタカは伝説的な功績を挙げたのだが、どうやらお前は彼女の名を知らぬようだな」

「死者は忘れられるものよ」肩をすくめてシヴィアは言った。

眠りについた戦友に対するシヴィアの冷たい言葉を聞き流し、ナサスは続けた。「かつて砂漠の登塔者はセタカにこう告げた、いずれシュリーマ帝国が全世界を支配した暁には、その夜明けを目にするだろう、と。我らは世界を支配してなどいなかったが、セタカは自分が無敵だと思い込み、イカシアの破滅前夜に怪物に打ち倒された。我はセタカの命の光が消えるまで彼女を抱きかかえ、そしてはるか砂の下での眠りへと送り出したのだ。セタカの武器を、その胸の上に置いて」

「もしこれを取り戻しに来たのなら、厄介なことになるわね、私たち」

ナサスは片膝をつき、胸の前で両腕を交差した。

「お前は超越者の血を継ぐ者。その体に皇帝の血が流れている故に、その武器はお前にこそふさわしい。その血がアジールとシュリーマを蘇らせたのだから、そこには必ず何か意味があるはずだ」

「意味なんかないわ」シヴィアはぴしゃりと言った。「あたしはアジールに助けてくれなんて頼んでない。あいつには何の借りもない。あんたやゼラスとかいう奴に関わるのもごめんだわ」

「お前の望みなど無意味だ。お前が運命を受け入れようと、投げ捨てようと、ゼラスはお前を殺そうとするだろう。奴はアジールの血筋を根絶やしにするためにここに来たのだから」

「アジールはシヴィアをどうしたいの?」タリヤが尋ねる。「それに、復活した彼は何をするつもりなの?私たちを奴隷にするの?」

「この子の質問攻めはキツいわよ」シヴィアが言った。

ナサスは一瞬返答に詰まった。

「実のところ、アジールが何をしようとしているかはわからぬ。だが彼がゼラスに立ち向かうというだけで、我には十分だ。お前たちは大人しく首を洗って待つか、いずれ戦うために今日を生き延びるかだ」

シヴィアはチュニックをまくり上げて血まみれの包帯を見せつけると、不敵な笑みを浮かべた。「大人しくしてたことなんか一度もないわ。でも、また『少しの間眠らされる』ようなものと戦う気もないの」

「お前は生き延びねばならぬ」そう言ってナサスは真っすぐに立ち上がった。「そして、準備が必要だ」

「準備って何の?」タリヤと共にわずかな所持品を集めながらシヴィアは尋ねた。

「シュリーマのために戦う準備だ」ナサスは答えた。「故に、我らは今は逃げねばならぬ。ゼラスの兵士たちはベカウラにいる者を皆殺しにしている」

「どうしてここを狙うの?」荷物を背負いながらタリヤは聞いた。

「彼女を探しているのだ」ナサスは答えた。

シヴィアは顔をこわばらせ、やがて深く息を吐いてから言った。「ナサス、あんたの話は、子供の頃から聞かされてきたわ。戦争や、英雄的な戦いの話を。どの伝説でも、あんたとあんたの弟はシュリーマの守護者だって語られてたけど、本当?」

「本当だ」ナサスは答えた。「レネクトンと我は何百年もの間、シュリーマのために戦った」

シヴィアはよろよろとナサスの元に進んだ。その有無を言わさぬ、決意に満ちた表情は、あの日のアジールと同じだった。何世紀ものしきたりに逆らい、超越の儀を執り行うべく太陽の円盤の準備をしろと、神官たちに命令したあの日のアジールと。

「だったら今すぐシュリーマのために戦いなさい」歴代皇帝にも匹敵する威厳を見せ、シヴィアは言った。「こうやって話してる間にも、砂漠の子が次々と死んでいく。あんたがずっと聞かされてきた英雄なら、街に戻ってできるだけ多くの民を救うのがあんたの使命よ」

ナサスはこの出会いがこのような展開になるとは想像もしていなかったが、シヴィアに叩きつけられた「使命」という言葉は、長く胸にくすぶり続けていた火種を煽り立てた。その炎は体内を駆け巡り、シュリーマが滅亡し、その後復興してからも過ごした長い孤独の時に、如何に彼が道を見失っていたのかをナサスに知らしめた。

「必ずや使命を果たすと誓おう」そう言ってナサスは手を伸ばし、革紐で吊るした首飾りの留め金を外した。「お前たちが今すぐここを去るならば、我は全身全霊をもってベカウラの民を守る」

首飾りの宝石は、海のような碧色に明るい金色の縞が走った翡翠だった。その内側からは、ゆっくりと鼓動する心臓のように、明滅する微かな光が放たれている。

シヴィアに首飾りを手渡して、ナサスは言った。「これを身につけておけばゼラスに見つかることはない。そう長くはもたぬが、十分な時間は稼げるだろう」

「十分な時間って?」シヴィアが尋ねる。

「我が再びお前を見つけるまでの時間だ」ナサスはそう言うと、身を翻した。

X

己の気が変わらぬうちに、ナサスはシヴィアとタリヤを残してその場を去った。二人が生き延びるには、ゼラスの兵士たちを自分に引き付ければいい。シヴィアとタリヤはナサスを見送ったが、彼が振り返ることはなかった。街の中央では炎が燃え盛っている。ナサスはベカウラの住民の悲鳴が聞こえる方角へ向かった。

凶暴な兵士たちに斬りつけられた男女の亡骸の傍らを通り過ぎる度、怒りがふつふつと煮えたぎっていく。ゼラスにツケを払わせねばならない失われた命の数がまた増えたのだ。ナサスは肩を回して筋肉をほぐす。最後にゼラスと対峙した時には、弟が隣にいた。激しい危惧の念が沸き上がる。

二人がかりでも奴を倒すことはできなかった。どうやって独りで奴を倒すのだ?

ナサスは五人の兵士が広場の出口を塞いでいるのを見た。背を向けていた兵士たちが、ナサスが斧を抜く音に振り返る。超越者との戦いに畏怖するかと思いきや、兵士たちの目にはゼラスの青い炎が燃えており、何をも恐れることはなかった。

血まみれの剣と槍を構え、兵士たちがナサスに襲い掛かった。ナサスはその突撃を正面から迎え撃ち、低い斬撃の一閃で同時に三人を真っ二つにした。拳で他の一人の胸を貫き通し、五人目の男のむき出しの頭に噛みついた。頭蓋骨が砕ける。

広場に入ると、生き残っている住民が太陽の神殿の前で剣を突き付けられて跪き、畏れる信者のように頭を垂れていた。血まみれの兵士たちの集団があちらこちらで槍を突き上げ、まばゆく激しく燃え盛る恐るべき魔神を讃えていた。

悪逆の魔導師の燃える体は空中に浮き、超越した体の炉心の如き熱で、下方にある太陽の円盤の縁は熔けていた。彼の前には悲鳴を上げ、もがき苦しむ法王が浮かび上がっている。

「定命の愚か者め」法王の肉を骨から引き剥がしながらゼラスは言った。「なぜアジールの如き無能な皇帝の血筋だなどと称したのだ?」

「ゼラス!」ナサスの叫びが広場に響き渡る。

定命の兵士たちが振り返るが、攻撃するそぶりは見せなかった。辺りは静まり返り、ナサスはゼラスから発せられる憎悪が、エネルギーの奔流のように押し寄せるのを感じた。法王の体に残っていたものはみな、鼓動を一つ打つ間に燃え尽きて灰となり、魔導師の周囲を巡る熱風に吹き飛ばされていった。全ての者の視線を一身に集め、ナサスは脇に構えた斧を握りしめて広場へ突き進んだ。

「もちろん、お前だろうとも」定命の者として地上に立っていた頃と同じ甘い声で、ゼラスは言った。「我をこの世の底に何千年も封じ込めた臆病者以外に、誰があろう?」

「もう一度あの場所に戻してやる」ナサスは宣言した。

ゼラスの姿が明るく燃え上がる。「あの時は愛する弟に助けてもらったな。答えよ。我とレネクトンが共に牢獄から解き放たれた後、あやつを見たのか?」

「その名を口にするな」ナサスは牙を剥いた。

「あやつがどう成り果てたか、その目で見たのか?」

ナサスは答えなかった。ゼラスは炎の悪魔が相戦うような音を立て、笑った。

「もちろん見てはいるまい」ゼラス自身である邪悪な炎が、悦びに明滅する。「あやつはお前を見るなり殺すだろうからな」

ゼラスは神殿の崩れゆく壁に沿って漂い降りてきた。炎が蛍のように、その四肢に沿って走ってはまた、ふらりと離れていく。威圧された兵士たちは彫像のように身じろぎ一つしない。この対決に、定命の者の出る幕はない。

「貴様の力はアジールが持つべきものだった」ゆっくりとゼラスに近付きながらナサスは言った。「貴様は太陽に選ばれてはいない」

「レネクトンもな。そしてあやつは見事に変わり果てた」

「その名を口にするな」牙を噛みしめてナサスは絞り出した。

「お前の弟は弱かった、そしてお前はとうにそれを知っていた、違うか?」漂うように近づきながら、ゼラスは言った。「思っていた以上に容易く、あやつは壊れた。お前があやつを闇に捧げた、そう囁いてやるだけで事は済んだ。お前があやつを敵と共に閉じ込め、死ぬに任せたのだ、とな」

魔導師が自分を煽っていることは百も承知だったが、ナサスの目は憎しみに曇り、もはやゼラスが秘めた絶大な力を繋ぎ止めている鎖を引きちぎることしか考えられない。街の中心で、時の定めから放たれた二人の超越者――戦士の王と生ける魔力たる魔導師――は相対した。

XI

先に攻撃を繰り出したのはナサスだった。静止した状態から、目にも止まらぬスピードの初動作に一気に移行する。力強い両脚で宙に飛び上がり、真っ向より弧を描いて斧を振り下ろす。刃がゼラスの胸に叩きつけられ、その衝撃で鎖の輪は千々に爆ぜ飛んだ。

ゼラスは神殿の壁に叩きつけられた。石造物がかち割れ、はるか地下の墓所から、塵がジグザグに走ったひびを抜けて吹き上がってくる。魔導師が前方に飛び出すと、四肢に渦巻くエネルギーがバリバリと音を立て、灼熱の光条が放たれる。ゼラスの炎に焼かれたナサスは吠え、両者は凄まじい勢いで正面からぶつかり合った。

魔法エネルギーの爆発的な衝撃波が広がり、木の葉が嵐に吹き飛ばされるかの如く人々が宙を舞う。振動の凄まじさに壁は千々にひび割れ、周囲の建物が倒壊する。ベカウラの民は、古代の神々の闘争に巻き込まれまいと逃げ惑う。ゼラスの兵士たちは呪縛から解かれ、散り散りに街の外を目指して走った。ゼラスが己の中心より魔力の火を呼び起こし、無差別に解き放つ度に炎が炸裂する。

続けざまに撃ち下ろされる輝く彗星を、ナサスは転がってかわす。炎は冷たいが、触れれば燃えるのは変わらない。いくつもの白い光球が甲高い音を立てて襲いかかる瞬間、ナサスは間一髪立ち上がると、斧の刃を振り回して弾き落とした。上空に浮かぶゼラスは、高笑いしながら枝分かれする稲妻を放ち、ナサスの周辺を焼く。ナサスは刃を魔導師に向け、老化の魔力を一斉に放射した。ゼラスは苦痛と怒りに絶叫し、その中心たる炎は揺らめいたものの、勢いを失うことはなかった。

ナサスはゼラス目がけて跳躍した。空中で四つに組み合い、再び太陽の神殿に激突する。その衝撃は外壁を砕き、最上部から巨大な石のブロックが崩落する。それらは古代の墓所の守護者が放つ鉄拳の如く大地を叩き、地面を割って神殿の地下納骨堂を露にした。頭上からは太陽の円盤の残骸が、巨人が金貨を弾いたかのようにくるくると回りながら落ちてきて、地面に激突して割れ、鋭い破片が四方八方に散った。その一片がナサスの太腿に深々と突き刺さる。ナサスが力任せに引き抜くと、輝く血がしとどにあふれ、脚を滴り落ちた。

ゼラスが割れた石の瓦礫の中から浮かび上がり、灼熱の青白い炎の矢でナサスの胸を撃った。ナサスは苦悶し、ふらふらと後ずさる。ゼラスが続けて放った輝く魔法のエネルギーの奔流が、今度はナサスの心臓に命中した。意識を奪われるような苦痛に膝をつくナサスの皮膚は、無残に焼けただれている。定命の者が相手であれば、一部隊を片手で片づけられるナサスではあるが、ゼラスは並みの敵ではない。太陽から盗んだ力、そして闇の魔力を自在に操る超越者なのだ。

街が炎の海に飲まれゆく中で、ナサスは頭を持ち上げて言った。「貴様が探す者はここには居らぬ。そしてもはや、貴様の目には見えぬ」

「アジールの末裔が、我から永久に隠れ通すことはできぬ」ゼラスは答えた。「必ず見つけ出し、無能の血筋を根絶やしにしてくれよう」

ナサスが斧を掲げると、刃にはまった宝石から力場の光線が放たれた。

「我が生きている限り、決してそうはさせぬ」

「よかろう」そういうとゼラスは両腕から光弾を何発も放った。無数の光が弧を描いてナサスに降りかかる。ナサスはできる限り避けようとしたが、全てを食い止めることは不可能だった。

ゼラスがナサスの目の前で漂い、そして言った。「弟にはお前の裏切りと、お前が隠し持っていた妬みについて、繰り返し話してやった。あやつはお前の名を呪い、涙を流しながら、五体をバラバラに引き千切ってやる、と言っておったわ」

ナサスは吠え、すっくと立ち上がった。ゼラスの下方から火山が噴火するように炎の柱が立ち、幾多の太陽の炎に包まれた魔導師は絶叫した。

だが、それでも足りなかった。決して足ることはないだろう。最後に戦った時、ナサスとレネクトンは力の絶頂にあった。今のナサスにはかつての栄光の面影はなく、対してゼラスの力は、何世紀も増大し続けてきたのだ。

最後の力を振り絞ったナサスの攻撃を、魔導師は一蹴した。ナサスにもう打てる手は残っていない。ゼラスはナサスを宙に浮かせ、崩壊した神殿の瓦礫の中へ撃ち込んだ。射線上の石造物が次々と割れ、ナサスは太陽の祝福を受けた自分の骨が、薪のように折れていくのを感じた。

瓦礫の只中に倒れ伏したナサスの両脚は折れ、ねじ曲がっていた。左腕は肩から手首まで砕け、力なくぶらりと垂れ下がっていた。唯一無事だった右腕で体を起こそうとしたが、白熱のごとき痛みが、折れた背骨を駆け上った。時間さえあれば傷は自然に治癒するものの、もはや彼に時間は残されていなかった。

「まさに地に墜ちたものだな、ナサス」指先から液状の炎の塊を燃え殻のように滴らせながら、ゼラスはナサスの方へ漂ってきた。「我に成したことを悔やむがいい。我の憎しみを受けさえしなければ、哀れんでやったものを。長きに渡り重荷を負い、孤独のうちに彷徨える間に、お前の魂は折れてしまったのだ」

「折れようが、重荷を背負おうが、誓いを破るよりはましだ」咳き込んで血を吐きながらナサスは答えた。「貴様がどれだけ新たな力を身に着けようと、貴様は裏切り者の奴隷に過ぎない」

ゼラスが激昂するのを感じ、ナサスは愉快な気分に酔いしれた。もう、それくらいしかできることはなかった。

「我は奴隷ではない」低い声でゼラスは言った。「アジールは最後に自由を与えた」

ナサスは衝撃を受けた。ゼラスが自由民だと?それでは辻褄が合わない。

「ならば何故、何故アジールを裏切った?」

「アジールが愚かだったからだ。あやつの我への報いは遅すぎた」ゼラスは答えた。

ナサスは苦痛にうめいた。割れた肩の骨同士がこすれ、接合し始めていた。腕に少しずつ力が戻ってくるのを感じたが、折れて動かないように見せなければ。

「我が死んだ後、貴様はどうするつもりだ?」ゼラスが美声を鼻にかけていたことを思い出しながら、ナサスは尋ねた。「貴様が皇帝となったら、シュリーマをどうするつもりだ?」

超越した肉体が体内で損傷を治癒する間、ナサスはそれを悟らせないよう、痛みを隠し通そうとした。

魔導師は首を振って、手の届かない距離へと浮上した。

「お前の肉体の再生に気付かないとでも?」

「ならば降りてきて戦え!」ナサスは叫んだ。

「お前の死を千度も夢想した」瓦解した神殿よりも高く浮上しながら、ゼラスは言った。「だが我の手によってではない」

魔導師が浮上するとともに、支えを失った神殿の壁は悲鳴を上げ、ひび割れ、ぐらついて、今にも倒れそうだった。

「お前の弟が、その仕事を全うするであろう」そう言うとゼラスは、かつての太陽の円盤よりもはるかに明るく燃え上がった。頭上から、石と塵が零れ落ちてくる。「かくなる時は、あやつの爪がお前の骨から肉を引き剥がすのを見物するとしよう」

崩れゆく壁に向かって白い炎の鎖を投げ付けながら、魔導師は続けた。「その時まで、お前を砂の下に埋葬しておくとしよう。かつてお前が我を封じ込めたように」

ゼラスは超新星のように燃え上がり、炎の鎖をぐい、と引いた。大量の石の破片が、轟音を立てて雪崩のように降りかかると、殺戮の炎が天からベカウラに落とされた。

大地が引き裂かれるように震えると、ナサスの下にある岩が回転しながら盛り上がり、耳をつんざくような音を立てて津波のように襲いかかる石の滝と激突した。神殿の壁がついに倒壊し、ナサスは何百トンもの瓦礫の下に生き埋めにされた。

XII

闇の後に、光があった。

熱くまぶしい、銀色の光。陽光か?

最初は、それが本物なのか、それとも死の苦しみを和らげるために作り出された幻なのか、彼にはわからなかった。

超越者が死ぬと、こうなるのだろうか?

否。これは死ではない。日光が視界を横切り、肌がその暖かさを感じた。重心を移動させて両足を伸ばし、両肩を回してみた。四肢が再生しているということは、かなりの時間を闇の中で過ごしていたことになる。肉体は速やかに回復したものの、どれだけ長い間意識を失っていたのかは、見当もつかなかった。

如何なる長さであろうと、とにかく長すぎた。

ゼラスは解き放たれ、以前よりなお強力だ。

ナサスは立ち上がり、手を伸ばした。頭上の岩は完璧なドーム型になっており、波紋のある天井は硝子のように滑らかで、触れると暖かい。薄明りの中でも、その表面の模様が、パレットで混ぜ合わされている絵の具のように渦を描いていることがわかる。光の射すわずかな亀裂に拳を何度も叩きつけると、ついに岩は割れ、高熱で硝子化した塊となった。光が溢れ、神殿だった建物は、もはや砕けたブロックが乱雑に積み上がった小山でしかなかった。ナサスは身をかがめ、彼を保護したドームの欠片を拾い上げた。手の上で矯めつ眇めつ調べてみるに、その混ざり合った素材は単なる岩ではあり得ないことがわかった。

ナイフのようなその破片をチュニックの懐に収め、ナサスは崩壊した太陽の神殿から歩み出た。廃墟を眺めていると、弔いの風がため息をつき、その息は死者の呟きを運んでいた。

街は消え去った。あるいは、街の廃墟の上に住民が建設したものが。ふと見ると、地盤の一部が大きく隆起しており、彼の命を救ったドームと同じ、波紋の模様があるのがわかった。その表面の先端部分は、打ち寄せる途中で凍り付き、硝子で固められた大波のように波打っている。

石化した波の下には、ゼラスの殺戮の炎から守られた、ベカウラの住民たちが現れた。最初は一人二人ほどが恐る恐る出てきて、それから数人ごとの集団が現れ、眩しい陽光に瞬きしながら、奇跡的に生き延びたことに驚いていた。

ナサスは小さくうなずき、呟いた。「タリヤよ、シュリーマは感謝する」それから向き直り、街の外へと歩き始めた。

ベカウラの他の地域は、以前ナサスがこの辺りを訪れた時と同様、打ち捨てられた抜け殻になっていた。崩れた壁、砕けた土台、そして化石化した森の枯れ木の如く立ち並ぶ、柱のなれの果て。このような廃墟は何度も目にしてきた。ゼラスとの最初の戦いの後、シュリーマが滅んだその時に。それ以来罪悪感から世界に背を向け続けてきたが、これからは違う。

ゼラスはレネクトンを血に飢えた獣だと言っていたが、ナサスは魔導師よりもはるかに深く弟のことを知っている。ゼラスは、レネクトンの獣の面しか見ておらず、その内にある気高い戦士のことを忘れているのだ。兄のために自らの命をも捧げた男のことを。故郷を裏切り者から救うため、自ら犠牲となった戦士のことを。ゼラスがそれを忘れようと、ナサスが忘れることは決してない。

レネクトンが生きているなら、彼の中にはかつて英雄だった己を覚えている部分があるはずだ。弟のその部分に手を伸ばすことができれば、彼を狂気の泥沼から救い出せるかもしれない。ナサスは長い間、いつかレネクトンと再会することを信じていたが、それはどちらかの死を意味するものだと考えていた。

だが、今は違う。彼には目的ができた。アジールの末裔は生き延びたのだ。まだ希望はある。

「お前が必要だ、レネクトン」彼は呟いた。「お前がいなければ、ゼラスは倒せない」

前方では、砂漠が彼の名を呼んでいた。

背後では、砂が再びベカウラを埋めようとしていた。

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